人間生活のおもいで

日常のつぶやきと、なんか知らんけど誰かが楽になるヒントを雑記する

エゴに力が無かったことを思い知る昨今の話

 

自分で書いたことに沿って行っている感。

 

私の指が勝手に動くことを、後から私の脳と身体が追随する。

 

まったく元気が出る気配がないが、楽になってしまった。望みを持たないということは、自我は悲しむが、真我的には楽なことだ。執着の発生のしようがないからだ。

 

自分がどんな心持ちであっても、ものごとは、なるべくしてなる。魂が決めたことに、私の気持ちなど関係ない。影響があるとすれば、抵抗のノイズにより進みが遅延することだけだ。

 

何も持っていないのだから、「今」をやる。

 

「今」のことをやれば、魂の選んだ人生になる。私は魂が何を選んだかなんて知らない。出力されたものを見る楽しみが、与えられている。

 

私が何も知らなくても、魂が知っている、それでよい。

 

好きなことに自分を開く、みたいな話

いつの間にか、ブログのことを

「人の役に立つことを書くもの」と教育されてしまった感がある。

もちろん、自ら洗脳されただけの自作自演だ。

 

役に立たない独白を貫く作家のことが好きなのに、自分には許せてなかったのだな。

 

自分が好きなものは、自分に響くから好きなわけで、

 

響くというのは共鳴するということ。

 

共鳴するというのは、少なからず同じものを持っているということ。

 

自分の好きなものについて、もっと愛を向けてみたら、自分が何に響いているのかがわかるかもしれない。

 

今日は、それをやってみる。

 

 

「今」を真摯にやり切る、の話

心が「今」に無いと、

未完了だらけになるんだ。

 

過去に引きずられ、未来に引っ張られ、

バチっと今に合わないから未消化が残る。

 

「今」にいられないときは、怖さがある時。

 

その怖さは大抵幻想なんだけど、

幻想に気づかない時は、それを現実だと思ってしまう。

 

怖さを否定すると、ノイズが増える。

 

すべて肯定をしてみる。

「今」を肯定してみる。

 

怖さを肯定してみる。

感じ方を肯定してみる。

 

「肯定」という言葉を「ゆるし」と変えてもいい。

 

しっくりくる言葉に変えていい。

 

「しっくり」の世界に戻ればいいのだ。

 

素に戻ればいいんだ。

 

あらためてブログを開始する。

書かないと具合が悪くなるんだ。

何かを発信しないといけない身体になってしまった。

 

これは、何の目的もなく、浮かんで湧いてくるものを書き留める雑記録。

 

特に意味はなくて、「書く」ということに私の出力があるだけ。

 

ChatGPTを使えばわかりやすく読める文章にはなるけれど、このワケわからん感じは、人間にしかできないことよね、ということで、人間生活のおもいでを書いてみる。

 

人間生活は、リアルさを演じること、演じてることすら忘れることをする、ドラマチックな遊びだった。

 

ドラマを冷静にみるより、感情移入できた方が臨場感高くて楽しいもんね。ドラマの世界に没入できるんだよね。

 

私こそ、没入、してきたよ。半世紀もしてきたおばちゃんだから、時代の流れも体験してる。ハチャメチャだよ。笑っちゃう。

 

その笑えるおもいでを、またここで書いていきます。誰が読むのか、読んでくれるのか知らんけど、とりあえず出力して置いておくね。

 

勝手な出力を気に入ってくれる人がいたなら奇跡的。嬉しいです。

思い込みの仕組み、みたいなもの

思い込んでいたことって、たくさんあったよね。

 

例えば「この人の言うことを聞かなければならない」とか。

 

なんで思い込むに至ったかというと、原体験では「親の言うことを聞かなければ生命維持が難しい」というくらいの恐怖を味わったから。

 

こどもの時に味わう恐怖は、

●家にいさせてもらえない(他に生活できるところがない)

●ご飯をもらえない(自分で買って食べることができない)

●放置される(自分の声が誰にも届かない、誰にも認識してもらえない)

 

などなど。

 

大人の肉体になってしまえばずいぶんと解決できることだけれども、その強烈な恐怖体験の不快感を回避するために、意識の底に追いやって感じなくさせる、

 

意識では思い出せないけど、意識の底のほうにジリジリと疼く感覚だけが残り、なにかをトリガーに反応を起こす。その「なにか」とは、自分が忘れてしまった意識の底の「感」が映し出されたもの。

 

だから、自分の反応に一番の答えがあるんだ。

 

嫌だな、と思うことがあれば、私はどうしてそれを嫌だと思うんだろう?と疑問を持ってもいいんだよ。

 

嫌だと思ったらいけない!と怒られたりしたよね。でもそれも、言った人がそう思い込んでいただけのことなんだ。

 

生きていくためには親の愛(お金、ご飯、身の回りのお世話なども含む)が必要だったこども時代は、愛を得るための交換条件として飲み込むしかなかったんだ。

 

そうやって、代々こどもは、自分という個性を消して、肉体の存続のためにサバイバルするの。大人になって、肉体的なサバイバルは必要なくなるのに、意識の奥底に閉じ込めたデータがバックグラウンドで動き続けちゃうんだ。

 

そうやって、自分にとっての常識、正しさ、基準が自分の世界を作り上げ、その世界から逸脱した人は許せなくなる。だから喧嘩や戦争をするんだよ。

 

でもね、どうしたって、思い込むことしかこの世は存在できないの。だってこの世は幻のようなものだから。人の意識のカタマリで、「ある」ように感じているだけ。VRみたいなものと言ってもいいかもね。

 

どのみち思い込むしかないのなら、ネガティブな思い込みの世界で生きるのか、ポジティブな思い込みの世界で生きるのか、自分はどっちを好むのかを自分で納得したいよね。

 

知らない間にネガティブな思い込みが普通だと思っていたことを、それが当たり前ではない、ってこんな歳になってから知るんだもの。

 

もっと早い時代の私に教えてあげられたらよかった。

 

もし、小学生とか中学生とかで苦しんでる子がいたら。

 

このブログを偶然みた人が、その子らに脳の使い方の発想を教えてあげられる可能性もあるかもしれないから、

私は、出会ったことのないその子らは過去の私だと仮定して、この手紙みたいなブログを書き続けるよ。

 

私にはこどもがいなくて、自分の遺伝子を残せなかったけど、もっと広く大事なもの(みえないもの)を遺せる気がしてる。

 

過去の私を愛してるよ。また明日ね。おやすみ。

思い込みだった!の発見

今日も過去の私へ手紙を書いていくね。


そういえばなんだけど、小学生の頃、

お気に入りのノートにお気に入りのシャーペンを使って、自分との交換日記みたいなことをしていたよね。昨日の私に伝えることとか、明日の私への申し送り事項とか。

あの感覚は楽しくて好きだったよ。私と通信できるのは、私にとってずっと楽しいことなんだね。もう年齢も見た目もだいぶおばあさんなのに、根っこは今でも変わってないみたい。

私は私なんだなあ。

 

今では身体の感覚や声の響きで、「見えない内側の存在の通訳」みたいなことをしてるよ。筋肉の状態から、何に反応しているのかを探すセラピーを仕事にして、対面で自分にも人にもたくさんやりすぎて、結果的に筋肉に触らなくてもできるようになってた。

 

こんなにハマった一番の理由は、自分のことを知りたかったから。

でも、道のり遠かった。

自分と繋がれなくなっちゃってたんだもん。

好きなもの、嫌いなものもわからなくなってたよ。

 

みそからぶっ壊れて、動けなくなったりもしたよ。

とにかくね、死にたかったんだ。死んだら楽になれると思ってた。いろいろやり方を調べたよ。どれも大変そうだった。あと、誰かに見つかるのも癪に障ると思った。変な思考だよね。それも当然だよ、だって頭狂ってたんだもん。

 

こんなになってしまって、中学の時の頑張ってた私に申し訳ないなあ、など思ったりもしてた。とにかく情けなくてね。生きてる価値なし、とか自分を審判してた(当時はほんとごめん)。

 

そんなしんどいところから、今は人さまに「元気になった」「スッキリした」など言って頂けるようになったわけで。それまでの間、めちゃくちゃ紆余曲折を経たんですわ。私が理想としていた大人になれてなくてゴメンだけど、過去の私の理想の生活は誰かの理想だったことを知っているから、あのまま間違った路線を生きなくてよかったと思ってる。今の私は、どんどん自分を好きになってるよ。私は闇のプロフェッショナルだな!って開き直ったら、余計に好きになった笑

 

自分のこと、あんなに大嫌いだったのにね。当時の自分には信じられないだろうけど、この自分好きが今の現実なのよ。私は自分といると安心するし、楽しいと感じてる。

 

自分が自分の気持ちに耳を傾けられるようになってからだね。自分に否定されないっていう安心感はすごく大きいな。

 

しんどかったこどもの時からのこと、思い出さないように蓋をしていたり、変な誤解をしていたり、記憶に残らないように処理されていたり(いわゆる記憶障害)してたけど、ずっと望んでいたから、時期が来て、いろいろ見れるようになったんだ。

 

おかげさまで、いろんな思い込みを発見することができてるよ。

本当に、思い込み劇場の中で生きてきたんだなあ!って、笑っちゃうくらい。

笑っちゃうなんて、ごめんね。

当時の私は必死だったんだよね。わかるよ、私がその本人だもの笑

でもね、ものすごく大げさなどこかの国のドラマを見るみたいな感覚なのよ。

そしてドラマは、派手に大げさにアップダウンがあった方がわかりやすいのよね笑

 

つまり言いたいことは、

たくさんの過去の死にたかった私に、生きていてくれてありがとう、ということ。

昨日も書いたな。でもほんとに感謝してる。

私がいたから、こんな面白いことが出来ているってことを、私がちゃんと理解するまで伝え続けたい。

 

ーーー

 

私の内側の反応。

 

自分に感謝の気持ちを向けても、内側の存在に全て受け取ってもらえている感じがしない。

 

自分のことを無価値だと思い込んでいる方がまだメリットがある、と勘違いしていそう。

 

「慣れてるから安心」だって。そりゃそうだな!!!無価値歴の方が長いもんね。

 

私が存在しているだけで価値があるって、全身全霊での納得感には至ってないから、まだちゃんと理解してないんだな。もっと理解を深めていこ。

 

こうやっていらない回路が見つかったり、新しい回路を学び直したりするの、楽しいよ。また遊ぼうね。おやすみ。

私をそのまま。

ずっとブログを書きたかったのだけど、勝手に変なものを背負っていて書けなかったんだよ。ようやく「過去の私に宛てて書けばいい」とわかったので、嬉しくなって書いているところ。

 

いろんな思い込みと共に生きてきた私。iPhoneのメモに、ストレージいっぱいにメモを残しているんだけど、ただの思考の整理になっていて、誰の役に立つものでもないんだよね。

 

誰かの役に立ちたいわけじゃないんだけど、このメモはある意味財産だとも思うから、過去の私みたいな人が読んだら、もしかしたら救われる人はいるかもしれない、なんてことは考えちゃうよやっぱり。だって、私も苦しいときインターネットを漁りまくったもの。

 

もう今となっては誰かも思い出せない誰かのブログに救われて、何が書いてあったかも思い出せないその文章が私の血肉になっているのかもしれないよ。

 

私がこどものときは大昔だから、インターネットがなかったんだ。だから、悩みは一人で抱えてた。同世代の友達になんて話せなかったし(闇すぎて笑)、きっと話したところで理解できないもん。友達はテレビか恋愛か部活か、そんな平和な話をしてるのが普通だったから。

 

ねえ、本当によく生きたよね。過去の私と今の私、よく生きた。そして未来の私が待っている。このブログに書き尽くして飽きた頃には、次の展開が始まっているんだろうね。その時まで、過去の私にメッセージを送り続けるよ。過去の私が光明を見出せるよう、今の私が光を送ってるからね。闇のプロフェッショナルだから、闇も光も扱えるんだよ。過去の私が生きていてくれたおかげ。ありがとうね。

 

また書くね。おやすみ。